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KAJA & JAMMIN'

KAJA Media紹介 (KAJAが取り上げられた雑誌やTVなどの情報をどうかMailにてお寄せください)

BAZ(バーゼル新聞) 2001年4月12日

大阪で生まれる。
Kajaが実質のデビューとなったのは1980年。
この年に発表された日清食品のTVコマーシャルソング「ギラリ熱愛」は、 商品のカップラーメンよりも「好きさ 好きさ ベイビー♪」のフレーズのほうが、人々の日常に浸透した感があった。
ラジオのリクエストは殺到し、街中にその軽快かつラテン的なリズムは響き渡った。
テレビでもその姿を頻繁に見受けられるようになり、翌年、ファーストアルバム「AGE」とセカンドシングル「炎の夜」を立て続けに発表した。
当時のテレビ制作会社で現場スタッフだった男性はこう語る。
「僕らの世代でKaja、といえば誰もが知っていたし、彼らの出現で大阪イコール熱い、ラテン的といったイメージが強化されていったんです」と、 その男性は今でもKajaのサイン入りのレコードを大事に保管し続けている。
その後、プロダクション側の意向と方向性が食い違いだすなどの理由で、バンドHIGH-WAYは解散し、 1984年、新たにKaja&Jammin'を結成。バブル時代創造期に媚びることなくKajaの独自性はメジャーダムで開花していった。
TVドラマ「ハングマン4」の主題歌、また翌年にはTV番組「本気ナイトパフォーマンス」のテーマソングなど次々にリリース。 中でも日本初上陸のビッグイベント「レゲエサンスプラッシュ」に出演したことは日本のレゲエ界に大きな影響をもたらしたと言い伝えられる。
当初の日本人にとってはレゲエはまだ夢の舶来音楽だったのに対し、いち早くバンドとして完成を見せたことがひとつ。 そして単にジャマイカを真似るのではなく、60年代ブリティッシュロックに見られるブルージーな音質やリズム感、 それに日本人的なドラマラスなメロディラインと、歌詞を日本語に徹したことで多くの海外ミュージシャンたちを震撼させたのである。
Kajaの演奏が始まると同時に舞台袖に駆けつけ「こんなレゲエは聞いたことがない。これこそJapanese Reggaeだ」 と乱舞したのがレゲエ界のプリンスこと、マキシープリーストであることは一部の関係者だけが知る事実。
以降、このイベントは多様化し、毎年恒例になるほど日本をレゲエ色に染めたことは言うまでもない。 だが問題はKajaがレゲエフリークではなかったことだ。
彼の中でレゲエは、人間の心奥底に潜む「Soul」の表現方法のひとつでしかない。 80年代中頃から自身の周波数をより直接的に伝えるために、ソロ活動を軸に本格的に全国へと発信していくことになる。

マルク・クレープス

The style of Kaja

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